Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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ゲームの物語における、内容/形式 の問題

ここで言う「形式」概念は、対義語として「内容」を想定したもの。

内容か形式か

 ゲームをやりながらプレイヤーが涙し、感動し、あるいは怒りを露わにするとき、そのプレイヤーはゲームの持つ「内容」に心動かされているのか、あるいは「形式」に心動かされているのか。  たとえば、『ドラゴンクエスト』をゲームとしてプレイしても、そのトランスクリプト(文字を書き起こしたもの)を、読んでも、プレイヤーが受け取る文字は同一のものである。純粋に「内容」のみに感涙しているのならば、トランスクリプトでもゲーム・プレイでもそれは同様の感動を与えるはずである。そこには形式の差などない。だが、実際には、多くのプレイヤーはトランスクリプトを与えられたときよりも、ゲーム・プレイという体験のほうを素晴らしいものだ、と軍配を上げるのではないだろうか。

 このように考えると、こうしたその問いに対する無難な答えは、「我々は、ゲームの内容のみに感動しているのではない。内容と形式の両方に心動かされているのだ」ということになろう。では、その「内容と形式の両方」とはどのような捉えればよいのか。これが、次の問題となる。

シナジー効果をどう捉えるか。

 ゲームの感動的な内容を語るとき、それを物語内容の水準だけでなく、物語の形式の水準においても同時に語ることは難しい。それは、語り手が、形式と内容のシナジーを理解していないから……ということは必ずしもいえない。  ゲームの物語を記述することは――とりわけ、その物語が「一本道」のものであるのなら――そう難しくない。また、ゲームの形式を記述することもそう難しくはない。「俯瞰視点による移動式」「選択肢提示によるテキストノベル」「ときめきメモリアル式、恋愛シミュレーション」「立ち絵提示型のキャラクタインターフェイス」など、記述は可能だ。  ただ、難しいのは、両者が相互に、どのような効果を果たしているのか、ということである。「ゲームをゲームとして評価する」というとき、その評価の仕方は多くの場合、こうした形での内容/形式の両面についての考察を同時に果たすということが目指される。内容水準だけでの評価、形式水準のみでの批評は、ゲームというメディアを複合芸術として発展したものとして、捉えるとき、その批評はどこか物足りない印象がぬぐえない。

成功した批評。

 たとえば、ギャルゲー関係だとサイト「アシュタサポテ」の林さんの議論が評価が高い

  • 観測、指し示し、時間性

    ギャルゲーの人物がかつての類型的で「ゲーム的」なそれとは異なり「内面的」な「深み」を獲得し始めたかに見えるとしても、その原因は物語(シナリオ)の水準には還元されない。ギャルゲーというジャンルの持つ独特の時間性こそが、そのような「深み」を感じさせる遠近法を可能にしたのだ。


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最終更新: 2007-03-09 (金) 18:21:56