自由度 のバックアップ(No.3)
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- 1 (2007-02-17 (土) 11:46:05)
- 2 (2007-02-17 (土) 11:46:05)
- 3 (2008-09-22 (月) 10:09:57)
ゲームの評価を論じる上でのマジックワードの一つ。
概要 †
「自由度」という言葉がゲームの文脈で明確に使われ始めた時期は明かでないが、おそらく80年代後半からとみてよいだろう。主にゲームの面白さをはかる指標の一つとして「ゲーム性」などと言った言葉と同様に使われてきた。多くの場合、「自由度が高い」ことと「面白いゲーム」はほぼイコールで捉えられる。あるいは「ゲーム性=自由度」といった言い換えもなされてきた。
オブジェクトかサブジェクトか。 †
ただ、「自由度」という概念を実在、として捉えるのはかなり困難が伴う。 たとえば、一つの作品の中でも「自由」の感じられ方は、都度ごと、人ごとに異なってくる。そもそも自由という概念が成立すると考えられる場合には、ある選択肢が「存在する」こと自体よりも、その選択肢を選びとる人間が、自分が選び取る選択肢についての認識、理解をしていることのほうが重視される(→自由意志、選択前提)。 たとえば、選択肢の意味をまったく理解できないような、ABCという3つの選択肢は、それぞれに何の差があるか測定できないのならば、選び取るという行為自体はまったく無意味なものである。Aを選び取った場合、Bを選び取った場合、Cを選び取った場合に、それぞれどのようなメリットとデメリットがあるかを認識できなければ、選択肢A、選択肢B、選択肢Cの差は実質的に消え失せる。重要なのは、選択肢が存在することではなく、選択肢を選び取る主体が選択肢を理解できる、ということである。 つまり、ここでは「自由なゲーム」や「自由なアーキテクチャ」がある、というよりは、「自由な主体」がある、という発想が一つには可能である。そう考えたとき、オブジェクトとしての「自由なゲーム」を考えるのはナンセンスな発想だと捉えられることになる。
自由度の測定可能性 †
ただ、上記のような原理論を横において、自由度という概念の測定可能性を操作的定義によって論じることは不可能ではない。ということで、測定方法について下記に提案を行いたい。
量的自由度:任意のパラメータ数 †
一つには、いくつかの自然科学で採用されている方式として、自由度を任意に決定可能なパラメータの数と捉えるという方法である。この方法を仮に「量的自由度」と呼ぶことにする。たとえば、
10=X-Y+3
という式があった場合には、任意に代入可能な変数はXとYの二点であるので、量的自由度は「2」と捉える。同様に
10=X-Y*Z+3
という式であれば、X,Y,Zの3つが任意となっているので、量的自由度は「3」と捉えることができる。
割合的自由度:任意のパラメーター割合 †
また、数ではなく、パーセンテージによって捉える、ということも可能だろう。この自由度を「割合的自由度」と呼ぶ。先ほどと同じ式
10=X-Y+3
ならば、10,X,Y,3のうち任意の変数の割合を捉えて、これを割合的自由度「50%」ということもできる。同様に
10=X-Y*Z+3
ならば、自由度は、10,X,Y,Z,3なので、割合的自由度「60%」と捉えられる。
被ハブ的自由度 †
次に、パラメータ関係性をどう考えるか、ということも測定上の問題になってくる。例えば、アバターの顔や、服装をカスタマイズできるゲームは近年では珍しいモノではなくなった。Mii*1のカスタマイズ機能と、Sims2のアバターカスタマイズ機能とを比べた場合に、量的にはSims2のほうがカスタマイズ可能なパラメータ数は多い。そのため、Sims2のカスタマイズ機能のほうが量的な自由度は高い、と言いうる。(全体的自由度は、ともに100%だとする。) しかし、Miiは、Wiiというプラットフォーム自体の機能であるため、『Wii Sports』や、『Wii Fit』など数多くのゲームと結びついているため、Wiiというハード上で展開されるゲーム全体の自由度上昇に貢献していることになる。Sims2のアバターもネット上にアバターをアップロードしたりすることはできるが、他のゲームに対するAPIとしては機能していない。 ここでは、ハブとなりうる自由度において両者は大きく異なっている。これを、被ハブ的自由度、と呼ぶことにしよう。 被ハブ的自由度は、結果的な量的記述*2も可能だろうが、割合としての自由度を質的に記述することの方が意味があるだろう。 ここで重要なのは、固定された(標準化された)インターフェイスがどこにむかって開かれているか、ということである。例示すると、次のようになる。
- 開発企業標準:開発企業にとってのインターフェイスの標準化
- 例:Miiを転用可能であること(企業にとってのオープン・モジュラー化)、シリーズ前作のセーブデータを次回作に引き継ぎ可能であることなど(企業にとってのクローズ・モジュラー化)
- ユーザー標準:ユーザーにとってのインターフェイスの標準化
- 例:Sims2のアバターのアップロード可能な性質など、ユーザーが自由に交換可能なモジュールとして機能するような標準
- ゲーム・システム標準:ゲーム・システムを介して利用可能なインターフェイスの標準化
- 例えば、ポケモンは同じゲームシステムを介してのみ交換可能。Simsなども同様。
などである。
目的の自由度、方法の自由度 †
さらに、ゲームの目的を任意に選べる、ということと、ゲームプレイの方法を任意に選べるということでも、意味はまったく変わってくる。*3 さらに、目的の自由度は、至近目的の自由度と、究極目的の自由度*4を分けられる。至近目的の自由度とは、例えば「レベル上げ」だとか「シナリオ進行」だとか「アイテム収集」だとか、ここ数時間、数十分でやりたいこと。究極目的は、たとえば「エンディングA」「エンディングB」といったマルチエンディングの問題として位置づける。
実際のカウント方法 †
まとめると、次のようになる
10=X-Y+3 | 10=X-Y*Z+3 | |
1.量的自由度:パラメータ数 | 2 | 3 |
2.割合的自由度:パラメータ割合 | 50% | 60% |
3.被ハブ的自由度(質的記述) | - | - |
4.目的(至近目的、究極目的)の自由度、方法の自由度 | - | - |
実際のカウントの難しさ1:プレイヤー認識範囲との齟齬(自由と自在) †
ただし、上記のような算出方法も、認識の問題と不可分である(特に割合による算出)。「自由である範囲」、あるいは「自由であるべき範囲」の全体性をどのように認識しているのか、ということによる。 例えば、あるゲームに慣れておらず、ほとんど一つのことしか制御できないようなプレイヤーの場合を考えてみよう。「10=X-Y+3」という式が成り立つ場合も、プレイヤーが、「10=X+3」としか認識していない場合は、プレイヤーにとって認識可能な量的自由度は「1」であり割合は「33%」となる。 あるいは、あるゲームジャンル(RPGでも、格闘でもよい)に慣れたプレイヤーにとっての自由度、ということを考えてみるとこの逆の現象が起こりうる。「10=X-Y*Z+3」という式が成り立つ、とゲーム制作者が考えていても、あるジャンルに慣れたプレイヤーからすれば、他のゲームではいじれた要素iや、要素ii、要素iiiが固定されていることが気になって仕方がない、という場合がありうる。その場合、「10=X-Y*Z+3」という式は「10=X-Y*Z+3-(2+3*3-14/7-12/3-2*4+3)」という認識に変換され、量的自由度は「3」でも、割合は「20%」まで下がることになりうる。 (この問題については、自由度に対する「自在」概念も参照のこと)
実際のカウントの難しさ2:パラメータの重み付け †
「10=X-Y+3」という式に登場する、XとYという二つの任意の変数が合った場合に、XとYでは、プレイヤーにとっての変数としての重要性が違う、という場合が存在しうる。 たとえば、80年代中盤以降の和製RPGを考えて見ると、しばしば論点になるのは「シナリオが一本道」かどうか、ということであった。一方で、戦闘でのキャラクターカスタマイズの量的自由度や、キャラクターの名前を任意に変更できるかどうか、といったことはそれほど大きな問題として見られていない。 このとき、シナリオ(X)が任意であることは、キャラクターの名前(Y)が任意であることよりも、より重要な変数として見いだされている。そのため、XもYも同じ独立したパラメータではあるが、Xの存在はYよりも強力な重み付けがなされている。
実際のカウントの難しさ3:パラメータの独立性 †
もう一点ややこしいのは、パラメータの独立性をどう考えるか、ということである。 たとえば、要素Xという独立したパラメータがある、といった場合に、
X=(Xi+Xii+Xiii....+Xn)
といった複数のサブパラメータの集合として、パラメータが成立する場合もあれば
X=(Y,Z,W,V)
といった、形で他の独立したパラメータとの関係性によってパラメータXが決定される、という場合である。 具体的には、アバターの顔をカスタマイズする、といった場合を考えてみよう。顔というパラメータXは、眉、目、唇、鼻、輪郭、髪型、髪の色…といったXi,Xii,Xiii,Xiv…の集合的なパラメータと考えることができる。このとき、「顔のカスタマイズ」を独立したパラメータとして考えるべきなのか。あるいはもっと上位の「キャラクターの体全体」を一つの独立した単位として捉えるのか、「眉」や「目」が独立した単位として適当なのか、ということである。 そして、例えば「眉」を独立したパラメータXとして捉えた場合、眉(X)は、目の大きさ(パラメータY)や、おでこの広さ(パラメータZ)、体毛の色(パラメータW)といった要素との関係によって成立することになる。眉(X)自体を調整することは可能だが、目の大きさ(Y)や、おでこの広さ(Z)と完全に切り離して調整可能なパラメータではない。いくつかのパラメータは、別のパラメータとトレードオフの関係にある場合が往々にして存在する。 何をもって「独立した変数」としてカウントするかは、その都度、操作的に定義される必要があるだろう。(例えば、独立して交換することが可能だとか、上位レベル/下位レベルを定義して、基軸となる概念レベルを任意に定義するとか。)
調査実例 †
当サイトで、2004年頃に行った簡易調査がある。
FFや、DQでは、シリーズが重ねられるほどに「自由度が上がった」という言説が登場しているが、ある程度まで実態として測定しようという方法提案である。これを参考に90年代後半に言われるようになった「FFは自由度が低い」という議論をパラフレーズしてみよう。 量的自由度については、DQにせよ、FFにせよ、任意に操作可能なパラメーターの数自体は上昇しているため、自由度が圧倒的に下がった、と言いうることは困難である。しかし、大きく低下している指標も見られる 一点目は、全プレイ時間中における操作可能時間である。言わば、割合的自由度が認識として低下した可能性が高い。プレイヤーが操作する時間よりも、ムービーシーンや、キャラクターごとの会話を聞いている時間が増えたのはほぼ間違いない。 二点目は、シナリオ進行の順序制御が行いにくくなったことである。DQにせよ、FFにせよ、ファミコン時代は、シナリオ進行の順序制御がわりといい加減に行うことが可能だった。しかし、スーパーファミコン以降は、シナリオの順序制御がプレイヤーの調整可能な要素ではなくなっていく。この要素が減っていくことについての「一本道だ」という形での批難が増えていったのが90年代RPGをめぐる日本の言説状況だった。つまり、シナリオの順序制御という要素が、他の調整可能なパラメータよりもより重要な要素としてユーザーから重み付けをなされていた、と考えることができるだろう。 三点目についてはDQ7では、シナリオの順序制御(エピソードの順序制御)はある程度可能になっていた。しかし、エピソードごとの目的は全て「シナリオ進行」のためであり、単に方法の量的自由度が少し上昇したに過ぎない。ロマンシング・サガ・シリーズのように、Aというキャラクターを獲得するためにこのエピソードを進めようだとか、お金を調達するためにこのエピソードを、Bという問題を解決したいからこのエピソードを、といった形での至近目的の量的自由度はほとんど増加していない。このために、DQ7のシナリオの順序制御可能な要素は、あまりにも予定調和的な印象を与えていた可能性が強い。単に方法のバラエティが増えただけでは、プレイヤーの認識に「自由」だという感覚を与えることが困難である可能性が高い。
以上は、分析の方法論的な例示である。 上記の分析の妥当性はそこまで強力に主張するものではないが、方法論として「自由度」概念を、上記のような分類によって捉えていくことはある程度まで機能するのではないだろうか。
言い換え、関連概念 †
「戦略性」概念 †
→混合戦略をみよ
「積極的自由/消極的自由」 †
自由と自在:「自在」概念との差異 †
「自由」と「自在」区分から、自在概念との意味上の差として記述するのであれば、 「ゲームが実装している、可能な行為の幅広さの度合い。」 という意味に限定し使用することができる。 要は、そのゲームで何ができるか、ということの幅広さである。
→自在をみよ。
参考 †
自由と自在、自由感、不自由、放りだされる、errand boy syndrome(やらされている感)主体